鳥取駅からのアクセスも良く、定番観光スポットとなっている鳥取城。
秀吉による凄惨な兵糧攻めが行われた場所としても知られています。
「日本にかくれなき名山」とも言われた久松山に築かれた山城部分、江戸時代に入ってから整備された平山城、秀吉が本陣を張った太閤ヶ平と、多種多様な城郭が楽しめる「城郭の博物館」としてお城好きからも人気を集めているスポットです。
本記事では、鳥取城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
秀吉による鳥取城攻め
秀吉がまだ信長の家臣であった頃に行った兵糧攻めの舞台となったことで知られている鳥取城。
「日本にかくれなき名山」と称された久松山に城を構え、鉄壁の防御を誇るお城でした。
当時、信長から中国方面の攻略を任されていた秀吉は、毛利と対立し、ついに両勢力は鳥取城付近でぶつかることに。
鳥取城を包囲した秀吉に対して、当時治めていた山名豊国は降伏しますが、すぐに重臣に追放されてしまい、お城は再び毛利の手に。
鳥取城には吉川経家が入り、粘り強く籠城します。
しかし、秀吉による略奪や不作で深刻な米不足に陥り、経家は城兵の命と引き換えに自らの首を刺し、鳥取城は落城しました。
池田氏と鳥取城
江戸時代に入って久松山の麓に平山城を整備したのは、姫路城を築いた池田輝政の孫にあたる藩祖・池田光政。
幕府の警戒を恐れた池田氏は高い建造物を築くことはありませんでしたが、二ノ丸には層塔型の三階櫓を備えるなど鳥取藩32万石にふさわしい威容を備えていたと言われています。
幕府に厚遇されていた池田氏ですが、戊辰戦争では新政府軍として活躍。
池田氏は幕末まで鳥取城を守り継ぎ、明治時代には軍事的に利用されていたものの、陸軍の撤退に伴ってすべて解体され、現在は残されていません。
「城郭の博物館」とも呼ばれる姫路城の弟城
球状に膨らんだ巻石垣、「日本にかくれなき名山」と称された久松山、秀吉が本陣を敷いた太閤ヶ平など、多種多様な城郭が楽しめる鳥取城。
その一帯が「史跡鳥取城跡太閤ヶ平」として整備されており、中世から近世、近代にかけての日本城郭の歴史が詰まっていることから国の指定史跡になっています。
また、江戸時代に麓の城郭を整備した藩祖・池田光仲は姫路城を築いた池田輝政の孫にあたる人物。
築城に携わった職人たちも共通していることから、姫路城の弟城と呼ばれることもあります。
鳥取城の見どころ
では最後に、鳥取城の見どころについてご紹介していきたいと思います。
中ノ御門
鳥取城の大手門として機能していた中ノ御門。
表門と渡櫓門が復元され、往時の鳥取城の玄関口が再現されています。
これにより擬宝珠橋から中ノ御門を通ってお城へ入っていくことができるようになり、さながら大名行列のような気分で登城することが可能になりました。
門の前の石垣に魔除けとして置かれたハート形の猪目石にも注目です。
巻石垣(天球丸跡)
鳥取城の見どころは、なんといっても球状に膨らんだ巻石垣。
天久院(のち天球院)の住まいがあった天球丸という区画を仕切っていた石垣の崩壊を防ぐために築かれたものですが、このような形状の石垣が城郭建築に取り入れられるのは非常に稀です。
江戸時代の護岸工事に球状の石垣が用いられることがあり、それを応用したものであるとも言われています。
仁風閣
大正天皇が宿泊したことでも知られている洋館。
鳥取藩主の家系に連なる池田仲博が明治時代に建てたもので、設計は当時の一流建築家・片山東熊が担当しました。
「仁風閣」という名前は東郷平八郎によって付けられたそうです。
本丸跡(山上ノ丸)本丸跡がある山城は「鳥取の餓殺し」の舞台となった場所。
「日本にかくれなき名山」とも称された久松山の山頂に築かれ、信長や秀吉をも唸らせた鉄壁の山城です。
道中には少し足元が不安定な場所もありますが、登りきってみるとその素晴らしい眺望や守りの硬さを実感できます。
太閤ヶ平
鳥取城本丸から東に1.5キロメートルほど離れた本陣山の山頂に位置する太閤ヶ平(たいこうがなる)。
まだ信長の家臣であった秀吉が鳥取城攻めの際に本陣を敷いた場所で、兵糧攻めのために空堀や土塁を築いた陣城群となっています。
この城のような巨大な防御機構が築かれた背景のひとつには、信長自ら出陣することを明言していたこともあるそうです。
まとめ
鳥取城の歴史や見どころについてご紹介しました。
「城郭の博物館」と呼ばれるほど多種多様な城郭のパターンを持つ鳥取城。
秀吉による鳥取城攻めの舞台となった山城は、「日本にかくれなき名山」と称された見晴らしの良い山に築かれた鉄壁の防御を誇る山城です。
江戸時代には一定から整備された麓のお城や、秀吉が陣を張った太閤ヶ平の遺構も残されており、さまざまな城郭を堪能できます。
鳥取駅のアクセスも良いので、ぜひ訪れてみてください。