明智光秀の最期の城として知られている勝竜寺城。
光秀の娘・ガラシャ(玉)の嫁ぎ先である細川氏の居城であったところで、細川藤孝(幽斎)や細川忠興(三斎)ゆかりの地としても知られています。
戦略的に重要な場所にあった名城であり、展示室で資料展示や残された遺構を巡っていくのも楽しいですね。
本記事では、勝竜寺城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
細川氏と勝竜寺城
勝竜寺城が築かれたのは14世紀、南北朝時代のことです。
北朝側の細川頼春が築城したとも、南朝側の畠山義就が築いたとも言われており、そののちは三好氏の居城となっていました。
やがて戦国時代に突入し、天下統一を目指す織田信長が三好三人衆を破った「勝竜寺城の戦い」で落城した勝竜寺城は、当時織田方についていた細川藤孝に与えられます。
藤孝は勝竜寺城を大幅に改修し、丹波戦線の要にふさわしい近世城郭へと生まれ変わらせました。
勝竜寺城は当時最新鋭の天守を持つお城として知られており、ほかにも瓦や石垣を備えた「近世城郭の原点」ともいえるお城であったと言われています。
このお城で結ばれたのが藤孝の息子・忠興と明智光秀の娘・玉(のちのガラシャ)。
関ヶ原の戦い直前での悲劇で知られる二人は、この地で祝言を挙げたと伝わっています。
藤孝が丹後の南側を拝領したことを機に一家は丹波へ。
勝竜寺城には与力の村井忠勝が入りました。
明智光秀と勝竜寺
1582年、明智光秀が突如として織田信長に謀反を起こすと、勝竜寺城もまたその波にのまれていきます。
光秀は姻戚で旧知の仲でもあった藤孝・忠興親子の勧誘に失敗しますが、最終的に勝竜寺城を占拠して「中国大返し」を成し遂げた秀吉を迎え撃ちました。
「山崎の戦い」で秀吉が持つ圧倒的な戦力と素早く巧みな根回しに後手を取り、大敗を喫した光秀は勝竜寺城に退却。
宵闇に紛れて勝竜寺城から居城としていた近江坂本城へと逃げ延びようと試みます。
しかし、農民たちの落ち武者狩りに遭った、落ち武者狩りからは逃げ延びたが自害した、など諸説ありますが光秀は坂本城へ帰ることなくその生涯を閉じました。
光秀の死後、主を失った勝竜寺城は荒廃。
江戸時代に長岡藩を賜った永井氏が入城したこともありましたが、水はけの悪さなどから整備を断念。
高槻藩移封を機に勝竜寺城はその役割を終えました。
勝竜寺城の見どころ
では、勝竜寺城の見どころについてご紹介していきたいと思います。
模擬櫓
本丸跡に建てられた模擬櫓。
令和元年にリニューアルされ、1階部分は休憩所、2階部分は資料展示室となっています。
資料展示室ではパネルや映像などで勝竜寺城やゆかりのある歴史上の人物についての展示が行われています。
石垣
中世城郭から近世城郭へと移り変わる過渡期に築城された勝竜寺城。
自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み」と呼ばれる手法が取られており、石仏や墓石などの転用も見られます。
本丸跡付近では発掘調査をもとに復元された石垣を見学や土塁下部を石垣にする腰巻石垣と呼ばれる形式の石垣などを見学することが可能です。
北門
「山崎の戦い」で秀吉に敗れ、勝竜寺城へ入った明智光秀。
彼は周囲の目に付かないよう、夜間に北門からの脱出を図りました。
枡形虎口になっている北門は当時の石垣や礎石なども一部残っており、現在は復元整備が進んでいます。
土塁・塀
二重の堀、そしてさらに土塁が築かれていた勝竜寺城。
土塁や空堀の一部は公園として整備されています。
周辺観光スポット
さいごに、勝竜寺城がある長岡京市周辺の観光スポットについてご紹介していきたいと思います。
勝龍寺
9世紀はじめに空海が開いたお寺。
もとは「青龍寺」としていましたが、大干ばつがあった際に龍神に勝利して雨を降らせたことから「勝龍寺」としたという伝承があるそうです。
御本尊の十一面観音は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
恵解山古墳
5世紀のはじめごろに築かれた前方後円墳。
発掘調査によって郭の形跡が発見されたことから、明智光秀が本陣を張った場所なのではないかとも言われています。
中山修一記念館
かつて「幻の都」と言われていた長岡京の発掘を行い、その存在を突き止めた中山修一。
その歩みをたどることができる記念館になっています。
なかの邸
江戸時代末期に建てられたとされる邸宅。
母屋や土蔵が残されています。
国の渡欧六有形文化財に登録されており、今はお食事処として利用されています。
長岡京市観光の際はここでランチを頂くのも良いですね。
まとめ
勝竜寺城の歴史や見どころについてご紹介しました。
明智光秀や細川氏ゆかりのお城として知られる勝竜寺城。
建物こそ残っていませんが、復元された門や櫓、野面積みの石垣や腰巻石垣などの遺構から往時の姿を思い起こすことができます。
周辺の歴史関連スポットと合わせてぜひ足を運んでみてください。